秋田銀線細工


秋田銀線細工

【あきたぎんせんざいく】

【工芸】


 秋田金銀細工は慶長7年(1602)に佐竹義宣が常陸から秋田へ国替えになった際、金銀細工師を連れてきたのが始まりとされている。

 院内・阿仁等の銀山から産出する良質な金・銀を使用し、歴代藩主の保護奨励の下、刀装具や装身具等の細工物の製作が盛んに行われてきた。


 独自の金工技法を考案し、秋田正阿弥派を確立させたといわれる名工・正阿弥伝兵衛(本名:鈴木重吉)は、江戸の武州正阿弥流・正阿弥吉長の弟子となり、延宝元年(1673)、秋田藩士 舟尾靭負に仕えるうちに、出羽久保田藩の第3代藩主・佐竹義処(よしずみ)に鐔工(つばこう)として召し抱えられた。

 佐竹義処のころは、初代藩主義宣以来の秋田城下の町割も完成し、藩制もようやく整備されたころであり、刀工の法城寺正照、法城寺永国などと共に、刀装担当の工人として迎えられたと言われている。

その後、五十年近くにわたって藩主佐竹家に仕え、久保田城下で武具等の金銀細工を製作すると共に指導にあたり、多くの名工を輩出し、秋田金工の基盤を築いた。


 明治9年(1876)、廃刀禁止令により武士階級の需要がなくなり、保護されていた藩鍔師の秋田正阿弥派や白銀屋とよばれた職業の金工師が失職。それに代わり装身具などの庶民需要が生じ、錺職(かざりしょく)により銀線細工が盛んに造られるようになった。

 秋田の銀線細工は名古屋打ちの簪に平戸の繊細な銀細工技法が導入されたことにより、秋田独自の金工品となったと考えられている。

 明治19年(1886)の俵屋火事や不景気の打撃をうけ一時衰退するが、明治末期には竹谷本店 初代 竹谷金之助の指導により優秀な職人が輩出されると同時に、第一次世界大戦当時の好景気に支えられ、再び盛況を取り戻した。


○「金銀細工」と「銀線細工」の違い

 戦前は、同一業者が銀線細工他、金・銀の鍛金・彫金製品をつくっていたことから、金銀の細工物は全て『金銀細工』と呼ばれていた。

線条の細工物を『銀線細工』と呼び分けるようになったのは戦後以降であるため、『秋田懸産業調査参考書』に記されている

「之を秋田金銀細工の濫觴となす。」

の一文も、秋田銀線細工に限った起源ではなく、秋田金工の始まりと捉えるのが妥当である。

※濫觴(ランショウ)…物事の起こり。始まり。起源


 銀線細工を含めた金・銀の細工物、鍛金(金属を金槌で叩き、板状に延ばして器物を作る技法)、彫金(鏨(タガネ)で金属を彫刻する技法)などのすべてを戦前までは秋田金銀細工と呼び、伝統的な製品としてキセル、かんざし、花瓶、置物、盃などがあった。

 近年は銀線細工が製品の主体となり、ブローチやペンダントなど装身具のほか、宝石箱や額装などの美術工芸品も製作されている。


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◆参考書籍


最終更新:2024/07/14

【金森 正也 (著)/無明舎出版 翻刻・現代語訳】