後三年合戦


後三年合戦

【後三年合戦】

【戦史】


編集中

 永保3年(1083)、出羽を統治していた清原家の内紛に端を発した戦を『後三年合戦』と呼び、美郷町金沢の地が最終決戦の舞台になったとされる。

 藤原(清原)清衡が建立した金沢八幡宮を中心に公園が作られ、戦にまつわる様々な逸話がこの地に点在する。


【火種】

 清原宗家長男・真衡の増長は日増ししていた。

切欠は真衡の子の婚礼日、長老・吉彦秀武からの贈答を蔑ろにした事だった。怒った秀武は清衡・家衡を立てて挙兵、館を襲撃。対する真衡軍も源義家を味方につけ、お家の内紛が勃発する。猛威凄まじく、清衡・家衡軍はあえなく敗北。


【亀裂】

 真衡はあっさり病死する。

陸奥守・義家の差配によって真衡の領地は清衡、家衡に分配されたが、宗家直系の家衡にとっては不平等な領地分けであった。家衡の不満は内々に肥大していく。

ついに家衡は謀叛、清衡の館を夜襲。清衡は母と妻子を喪う。

骨肉の争いは第二幕を迎える。


【沼柵の戦】

 応徳3年(1086)、家衡は沼柵に拠を構える。攻城戦に意気込む清衡・義家連合軍であるが、沼柵は周囲が沼地に囲まれた要害で攻めるに難く義家は苦戦を強いられる。折悪しく季節は冬、極寒の中撤退を余儀なくされる。

緒戦は家衡の勝利。

両軍共に援軍が加勢、戦場は金沢柵へ。


【金沢柵の戦Ⅰ】

 沼柵から翌年。

金沢柵に家衡軍、湯沢岩崎に義家軍。

かの有名な『雁行の乱れ』を皮切りに〘軍神〙義家勢は本格的な柵攻めを開始。義家の弟・義光や部下の権五郎景正の武功、両軍武勇、鬼武と亀次の一騎討ちの場面など。戦は熾烈を増していく。


【後三年合戦の一幕・雁行の乱】

 金沢柵に攻め込む源義家は敵陣前のススキヶ原に差しかかった時、西沼の上を一列に飛んでいた雁の群れが突如として乱れ飛んだ。

これを見た義家は異変を察知、藪の中に潜んでいた伏兵を見抜き返り討ちにし、奇襲から逃れた。

合戦の名エピソードである。


【金沢柵の戦いⅡ】

 戦況は清衡・義家軍に有利に進む。

家衡家臣・藤原千任は櫓上から義家の不忠を罵る。それは義家の怒りの火に油を注ぐようなものだった。

兵糧攻め、女子供を皆殺し、ついには金沢柵炎上。

家衡軍は霧散、家衡の叔父・武衡と千任は惨たらしく野晒しにされた。

家衡は…


【終結】

 逃れようとした家衡は射殺、残党も悉く首が晒された。寛治元年(1087)11月14日、後三年合戦終結。

勝った清衡は、姓を父の『藤原』に改め、平泉に移り中尊寺・金色堂を造営、後の源平合戦まで続く奥州藤原氏の基を作った。

時代は一つの区切りをつける。


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◆参考書籍


最終更新:2024/09/01