八郎潟曳網漁


八郎潟曳網漁

【はちろうがたひきあみりょう】

【職業】

潟の民資料館展示
潟の民資料館展示

編集中

●八郎潟の魚類

 干拓前の八郎潟は湖底が最深部でも5mと浅く、また海水が侵入する汽水湖(淡水と海水が混在した状態)であったため、70種をこえる淡水魚と海水魚が生息していた。

魚は全てが漁の対象ではなく、主にシラウオ、ゴリ、チカ、ボラ、フナ、セイゴ、ウナギ、カレイ、エビ、アミなどが漁獲された。

干拓後は海水魚がいなくなり、ソウギョ、ブラックバス、オイカワなどが新たに生息している。



●間手網漁

 間手網は、船越水道を漁場とした漁法で、白魚間手と雑魚間手の2種類がある。

ともに下り魚を捕獲する。

秋のシラウオを対象とする間手網は、元禄年間すでに定置漁業としてその漁場が整備されているところから考えて、その起源は古くから遡って求めることができる。

 船越水道に限られるこの漁業は、いわば大規模な簗(ヤナ)漁業の変化したものとみることもでき、その声価は『間手一場所田一町歩』といわれてきたことからも察しがつく。

《男鹿の寒風》図絵より



●毛縄(ケナ)・張切(ハッキリ)網漁

 張切網(通称ハッキリ)は鰡(ボラ)の定置漁法。ハッキリは鰡漁の代名詞とされる。

漁場は張切掛場とも称され、天王・船越・払戸の3地域が株持の漁場、つまり専用漁業権を有していた。

江戸時代後期に書かれた地誌『絹篩』には文化13年(1816)の懸々場(カケバ)が図示されている。

 また、毛縄は魚群の誘導部分に藁縄を張り巡らした鰡の定置漁法で、張切網漁と漁場や漁具が併用されるようになり、毛縄・張切網漁と総称された。

《図絵・男鹿の寒風、絹篩》


・金木鼻のボラ塚群

 ボラの豊漁に感謝し、漁の安全を祈るとともにボラの霊を供養のために建立したものである。

金木鼻は、かつての張切網懸場の直ぐ近くの場所であり、安政6年(1859)から昭和26年(1951)にわたる6基の塚が立っている。

(町文化財指定)


●打瀬網漁

 打瀬網漁は明治末期、芦崎の工藤寅吉のもとに霞ヶ浦の坂本金吉が寄宿し、その技法を伝えたのがはじまりとされる。

これは風力を利用しての曳網漁法であり、高度な漁業技術を必要とした。船いっぱいに帆をあげた雄姿は、八郎潟の風物詩として広く知られている。

操業者の地域はあまり多くなく、塩口と羽立の両地域でほぼ75%を占めている。

また『漁業許可証(秋田懸)』を必要とした。


●さまざまな漁法

 八郎潟には数多くの種類の魚が住んでおり、その生態に合わせてさまざまな漁法が行われていた。

刺網漁、ふくべ網漁、モッパ漁など、その漁法は50種近くを数えた。

これらの漁法のなかには、打瀬網漁や氷下曳網漁などのように他所からもたらせ改良を加えたものもあるが、多くは魚の習性をよく観察し自然条件を活かして考察されてきたものである。

 慶長6年(1601)の漁場境界裁定の文書からは長い歳月をかけて漁法が工夫され、編み出されたことがうかがい知れる。


・チカ(ワカサギ)刺網漁

漁期:通年

漁獲物:チカ(ワカサギ)

チカアミ(ワカサギ刺網)を用いる。アバ方、アシ方。


・ふくべ網漁

漁期:1月-5月、9月-12月

漁獲物:ゴリ、ボラ、カレイ、セイゴ、


・モッパ漁

漁期:3月-7月中旬、9月上旬-12月上旬

漁獲物:フナ、カレイ、ウグイ、ボラ


・シジミ貝漁

マンガという道具を用いて湖底のシジミをさらう。


・エビ筒漁

竹製で筒状に編まれたエビ筒(エビド)を200-300個ほど水中に沈めてエビを捕獲する。


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最終更新:2024/10/12