八郎潟氷下漁


八郎潟氷下漁

【はちろうがたひょうかりょう】

【生活】

潟の民資料館展示
潟の民資料館展示

編集中

 八郎潟は比較的浅かったため、冬の間は湖面の全てが氷に覆われた。

この張りつめた氷の上で行われた漁業には、曳網による曳網漁、刺網によるシガサシ漁(氷下刺網漁)、建網によるフナ建網漁やゴリド漁などがあった。

 この中でも氷下曳網漁は、9名-13名ほどの漁師が一組となって大がかりに行われた漁法である。


 湖畔の各地区で営まれ、漁場は湖面の全域にわたっていたが、特に塩口や羽立を中心とした漁師たちが盛んに操業した。

寛政6年(1794)、久保田(秋田市)の商人であった高桑興四郎が、諏訪湖(長野県)の氷下曳網漁法を習得して広めたのがはじまりと伝えられている。


氷魚の村君》図絵より

 氷魚(ヒヲ)の曳網は凡7人なり。鹿渡の浦、荒屋敷の浦なとにては、8人引もありき。7人のうち6人を網子(アゴ)といひ、今一人を村君といふ。

大口魚(タラ)、鮭のあひきにも、むらきみをたてり。

いはゆるあまのむらきみなる事、いにしへさまなり。


 菅江真澄は文化7年(1810)1月、八郎潟の氷上に出て氷下漁を見学している。

この時の観察日記をまとめた日記《氷魚の村君》には、氷下曳網漁を中心に40枚に及ぶ図絵が収められている。真澄の描いた図絵を見ると、漁法、漁具、漁師の服装などのほか、氷が厚く張った当時の八郎潟の様子を知ることができる。



でわwiki関連リンク

◆参考文献


最終更新:2024/10/12