【ひらた あつたね】
【人物】
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国学者
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出身地:久保田中谷地町(現 秋田市)
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生没年:安永5年(1776)~天保14年(1843)
江戸時代後期の国学者。
篤胤は安永5年(1776)中谷地町(現在の中通4丁目2)に佐竹藩士・大和田祚胤(よしたね)の四男として生まれた。
20歳の正月、志をたて江戸に出て大いに勉学につとめ、25歳の時、松山(岡山県)藩士平田篤穏(あつよし)の養嗣子となった。
本居宣長の国学に啓発され、宣長没後の門人となって国学、神道で一大学派をなし、生涯を学問にうち込んだ。
66歳の時、その思想が幕藩体制をゆるがすとされたため、幕命により国元秋田に帰り、佐竹藩より現在の秋田市南通亀の町に居宅を賜ったが、天保14年(1843)9月11日、この地で68歳の生涯を終えた。
『平田篤胤大人終焉之地』の石碑は、この地を譲り受けた、仁平俊蔵氏が後世に伝えるため建立したものである。
墓は手形大沢にあり国指定史跡となっている。
- 本殿一棟 拝殿一棟
- 昭和28年10月5日指定
- 所在地:秋田市千秋公園1番地16
- 所有者:彌高神社
彌高神社は明治42年(1909)に、国学者・平田篤胤、経世家・佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移転したものである。
この社殿はもと久保田城内にあった佐竹氏の氏神八幡神社の正八幡社で、文政2年(1819)の建造である。
本殿は桁行3間、梁間2間、入母屋造、向拝3間、銅板葺である。
向拝は吹放しとなり、虹梁と手挟を重ねた珍しい手法があり、また張出組などの扱いと彫刻類の多用などに、この時代の特徴がよくあらわれている。
拝殿は桁行正面5間、背面7間、梁間4間、入母屋造、向拝1間、軒唐破風付、銅板葺で平面計画に得得なものをもっている。
本殿、拝殿は現在石の間で結ばれ、権現造の形式をとるが、石の間は後年の建造とみられる。
彌高神社社殿は、秋田藩の造営した数少ない神社建築として貴重なものである。
◆参考文献
最終更新:2024/10/16
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