本多 正純

本多 正純

【ほんだ まさずみ】

【人物】

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 本名・本多上野介正純。

父・本多佐渡守正信とともに徳川幕府を創立した功臣の一人で、宇都宮15万5000石にまで昇進した。

だが、その家康も亡くなった元和8年(1612)に家康の七回忌を日光東照宮で行った二代将軍秀忠は、その帰りに宇都宮に泊まることになっていた。

ところがその途中に加納殿(秀忠の姉)の使者が

「正純は釣り天井をつくり、将軍暗殺を企てている。」

と告げ口したため、秀忠は予定を変更して江戸城に帰った。

 そのため、正純父子は出羽国由利に厨料5万5千石で配流されたが、翌年には1000石に減らされて仙北郡大沢郷に移され、さらに佐竹義宣に預けられた。

本多正純父子墓所(横手市城南)
本多正純父子墓所(横手市城南)

 義宣は正純父子を横手に移し、館を構えて住まわせたところが上野台。

義宣は正純父子を厚くもてなしたので正純は、

「家康は佐竹の所領はそのままにして、食禄を半減にしようとしたのを、わたしが反対して出羽に国替えさせたのに、今こんなに恩を受けるとは…」

と後悔したという。

ところが幕府はこれを伝え聞き、政治の秘事を洩らしたとして上使を遣り、館の窓を釘付けにして警戒を厳重にした。

 

 

 子の正勝は寛永7年(1630)に、正純は寛永14年(1637)で生涯を終え、この地に埋葬された。


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◆参考文献

  • 秋田の伝説
  • 各種説明板

最終更新:2024/10/19