【こうざん】
【社会】
鹿角は、「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と南部牛追唄で唄われるほど金・銀・ 銅を産出する山が多く『鹿角市史第二巻(上)』などから金山21ヶ所、銀山2ヶ所、銅山25ヶ所、鉛山10ヶ所、硫黄山など11ヶ所の計69ヶ所の鉱山を見つけ出すことができました。
尾去沢鉱山のように発見・操業が飛鳥時代(6世紀末-8世紀初頭)まで遡ると伝えられている鉱山もありますが、国内で鉱石の探索と採掘・製錬が本格的に始まったのは安土桃山時代(1573-1603)後半から江戸時代(1603-1868)のはじめ頃で、白根金山や五十枚金山(尾去沢鉱山の一部)が発見されたのもこの時期です。
幕府は鉱業を奨励するため、外国から新しい採掘と製錬技術を導入し、技術者を鉱山に派遣したことから江戸時代初頭から全国的に金・銀の産出量が飛躍的に増加しました。
しかし、寛永年間(1624-1643)の頃から金・銀の産出量が減少し、銅山に操業を替えるところが増え、尾去沢鉱山も金鉱が枯渇しはじめた元禄8年(1695)には銅山に転換しました。
尾去沢鉱山で製錬された粗銅は牛の背に積まれ、 主に来満街道(『銅の道』とも呼ぶ)を使い野辺地湊まで運び、船積みされて上方(大阪)まで運ばれました。運ばれた粗銅は再び製錬されて御用銅として中国やオランダとの貿易決済に使われました。
明治元年(1868)に新政府が樹立するとこれまで藩直営の鉱山を没収し、その後民間に払い下げました。
また、政府は西欧列国に追いつくため富国強兵政策の一環として鉱山の近代化を推し進め、全国に鉄道網の整備に着手しました。
明治38年(1905)に奥羽線(奥羽本線)が全線開通すると、大正2年(1913)に私鉄秋田鉄道会社が米代川上流部で操業する鉱山の近代化と資材・粗銅運搬のため大館・花輪間に鉄道敷設工事を開始し、大正4年(1915)に尾去沢鉱山の粗銅積み出し駅として尾去沢駅(現在の土深井駅)が開業しました。
同12年(1923)花輪まで鉄道が延伸すると積み出し駅は陸中花輪駅に変更され、これに合わせて佐藤運送店(現・丸佐運送合資会社)が尾去沢駅前から陸中花輪駅前に移転しました。
大正5年に発行された『鹿角郡花輪町真景図』では路線を尾去沢鉱山まで延長する計画となっています。
国内の鉱山は、大正後半から昭和初期に発生・勃発した世界恐慌や第一次世界大戦などで好況・不況を繰り返し、これに合わせて休山・復興を繰り返していましたが、昭和16年(1941)に勃発した太平洋戦争で壊滅的なダメージを受けました。
戦後の復興、その後の高度経済成長を推し進めたのは尾去沢の鉱山をはじめとする全国各地の鉱山でしたが、貿易の自由化による銅価の低迷と鉱脈の枯渇により昭和53年(1978)に尾去沢鉱山・小真木鉱山が閉山しました。
- 尾去沢鉱山
- 阿仁鉱山
- 院内銀山
◆参考書籍
- 菅江真澄全集第/
- 菅江真澄遊覧記第4巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション
-
- 秋田叢書 巻
- 各種標柱・説明板
最終更新:2024/10/05
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