【なか みちひろ】
【人物】
- 寛延元年(1748)~文化14年(1817)
- 秋田藩士、藩校明徳館助教
幕府から依頼された秋田風俗闘状に対する答状『秋田風俗間状』の作成する等の業績の他、佐竹氏別邸(如斯亭)の庭園の整備を任された。
また義和公から「碧」の一字をいただき『碧峰』の号で歌を詠んだ。
儒者。
真澄とは文化8年(1811)5月12日、小泉(秋田市金足)の奈良喜兵衛宅(現・秋田県立博物館分館)で会ったのが《軒の山吹》に記されている。
当時、秋田風俗問状答の制作に腐心していた那珂と自身の地誌編纂を望んでいた真澄の利害が一致、那珂は真澄を同じく藩士の高階貞房に紹介し、見事藩主への御目通りが叶ったと思われる。
このファーストコンタクトは互いに好印象を残したものと見られ、2人はこの後もちょくちょく旅を同行する。
太平(秋田市)、岩見三内(河辺町)を巡り、太平山も共に登頂している。
関連アーカイブ
- 旧奈良家住宅
- 御別業跡
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◆参考文献
- 菅江真澄読本4/田口昌樹 著
- 菅江真澄遊覧記第5巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション
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- 秋田叢書別集4
- 真澄紀行/菅江真澄資料センター
最終更新:2024/10/07
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