中山人形


中山人形

【なかやまにんぎょう】

【工芸】


編集中

【由来】

 奥羽線横手駅から西に5㎞、秋田県平鹿郡平鹿町吉田字中山が、中山人形誕生の地です。米どころ秋田の南部で、西南に出羽富士・鳥海山の姿が美しく浮かんでいます。

 むかし野田宇吉は鹿児島県出水郡野田村生まれの、鍋島藩(佐賀県)保護お抱えの陶工でしたが、岩手の盛岡にやって来て南部氏の保護を受け『山影燒』を作成、さらに天保の大飢饉のとき(天保4年)には津軽を回って、秋田の岩崎藩(湯沢市)に落ち着き弁天部落にカマ場を築き、安政期には湯沢城代佐竹氏の援助で磁器の『松岡焼『を始めました。

 長子金太郎、妻ヨシは、義父字吉から粘土細工を習い、手押し絵や串姉コ(姉様人形)からヒントを得て、明治7年に中山人形を作ったのです。いまや貴重な土人形の逸品であることは、中央から発行されている本で紹介されているとおりです。

種類の豊富なことでも、全国に知られています。

【人形の種類】

・伝統人形=

天神、お雛さま、おいらん、童子相撲、三十三間堂棟木由来のお柳、常盤御前、忠臣蔵の軽、刈萱道心と石童丸、馬乗り鎮台、大正の女学生、小学生、串姉コなど百種

・新型=

小正月行事の鳥追い、秋田市の七夕竿灯、尾ふり秋田犬、横手市のカマクラ、ほんでん、其の他


製造元 秋田県横手市三枚橋 樋渡義一


●秋田ふるさと村展示

 横手市の樋渡家に伝承される中山人形は、平鹿郡吉田村中山(現横手市)の樋渡ヨシが、義父の陶工・ 野田宇吉から粘土細工を習い、横手押し絵や串姉コ(姉様人形)からヒントを得て創作したのがはじまりといわれる。

明治7年(1874)頃のことで、地名にちなんで中山人形と呼ばれた。

 昭和時代に入ると、仙台の堤人形の技術を修得した後継者により改良が加えられ、秋田の風俗習慣を 取り入れた風俗人形が生みだされた。

以後、型おこしの素焼きに手描きの彩色を施した明るい作風は、郷土玩具愛好家に好評を博し、全国に通ずる土人形として知られるようになった。

 近年は歌舞伎から題材を取った古い型の伝統人形を継承しながらも、郷土の伝統行事を表現するかま くら、竿燈、ぼんでんなどの新作人形も発表している。

特に干支にちなんだ十二支土鈴はもっとも人気のあるシリーズで、その中の羊鈴は昭和54年(1979)度の年賀切手の図案に採用されている。


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◆参考文献

  • 秋田ふるさと村展示
  • 後三年合戦資料館特別展示

 


最終更新:2024/10/07

【金森 正也 (著)/無明舎出版 翻刻・現代語訳】