【赤穂浪士】
【人物】
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① 小野寺十内秀和
赤穂浪士四十七士として有名な小野寺十内秀和(1643-1703/03/20、赤穂藩京都留守居役百五十石役料七十石)は小野寺氏の孫である。
小野寺又八の長男に生まれた十内は、四書五経を講義できるほどの教養人で、和歌を好む風流人としても知られていた。
元禄14年(1701)、主君浅野長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介刀傷に及び、長矩は即日切腹となった。京都でこの報に接した秀和は、老母と妻を残し、鎧一領槍一筋を具し赤穂に駆けつけた。
お家再興 おため、大石良雄の右腕として奔走したが、主家再興の望みが消えると、敵討ちのため江戸に下った。
12月14日の吉良邸討ち入りには十内の養子、甥など親族4名が加わった。
十内は裏門隊に属し3人を討ち取っている。
元禄16年(1703)2月4日にお預けとなっていた細川家で切腹し、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃以串剣信士、享年61歳であった。
仲がよかったことで知られる妻の丹は、秀和の没後、京都本圀寺で絶食し夫の後を追っている。
②小山田 荘左衛門
『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の1人。
浅野長矩(浅野内匠頭)が亡くなり(赤穂の藩主、吉良上野介と争って自刃)からのち、
大石良雄(大石内蔵助)が小山田荘(庄)左衛門に、敵討ちのために良い刀を求めてくるようにと金二百両を与えると、小山田はこれ幸いと変心してしまい逐電し、元禄の末(1701)の頃、男鹿の飯村に住みついたといわれている。
《男鹿の秋風》
◆参考文献
- 菅江真澄全集/
- 菅江真澄遊覧記第5巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション
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- 秋田叢書別集1
最終更新:2023/07/20
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