おやすきょう
湯沢市皆瀬湯元
最終更新:2024/1/30
真澄記:
陸奥(仙台方面)へ越える山路の、大湯の沢にも湯小屋がある。そこには温泉神、山神が祭ってある。この大湯の湯元あたりには、9月の末から10月になっても、きりぎりすや鈴虫が鳴くのである。
⊞ 小安峡温泉の由来
①その昔、木こりが山中の泉で足の傷を治している麋(カモシカ)を見て温泉を発見したという説。
②片脚を折った鶴が脚を温めていたところ、10日で治り飛び立つ姿を見て温泉を発見したという説。
いずれにせよ、温泉の効能を知った村人が湯壺(風呂場)を作り、近在の人が入浴したところ、病気の快癒が見られたことから広く知られるようになり、院内銀山を見廻りに来た佐竹藩士が利用するなどに及んだ。
⊞ 小安峡温泉佐竹藩利用歴(説明板より)
- 寛文6年(1666):二代義隆公子息・佐竹義尉(よしやす)公 御入湯
- 宝永4年(1707):佐竹南家・御奥様入湯(お供数百十人余り)
- 文化8年(1811):9代藩主、天樹院義和(よしまさ)公 御来湯
佐竹藩では、温泉を発見し特に功績があった者に湯別当という称号を与え、温泉の税金(湯上銀)を藩に納めた者だけが温泉経営を許された。
⊞ 前九年・後三年合戦の頃(説明板より)
前九年合戦(1051~1062)では源頼義の援軍が文字越をして往来し、後三年合戦(1083~1087)では、数千の軍馬を率いた頼義の嫡男・八幡太郎義家が小安口を越えて戦い、途中、戦勝祈願のための八幡神社(皆瀬字仏師ヶ沢)を建立したと伝う。
戦を経て、岩手県平泉には藤原氏による奥州泉文化が築かれ、この頃より交通の要所として小安口は機能した。
⊞ 戊辰戦争の頃(説明板より)
江戸幕府を守る奥羽列藩同盟は、秋田藩を攻略するため、慶応4年(1868)7月末に
国境(院内口)を越え湯沢への侵入を皮切りに、小安口からも仙台軍1000人が増田まで浸出し、途中、庄内軍と合体しながら県南軍(湯沢・横手・神宮寺)を攻略し秋田久保田城へ迫る勢いでしたが、東北各地の幕府軍が降伏したため、9月19日、仙台軍3000余りの兵は小安口より仙台への撤退を余儀なくされ、小安峡温泉の住民は山へ隠れるなど不安な日々を過ごしたと伝わる。
退却の途中、大砲や砲弾を不動滝に投げ入れたと伝えられ、実際、不動滝の滝壺から大砲の弾が発見されている。
小安峡大噴湯
真澄記:9月5日
小安河原湯 割温泉(ワリユ)のこと。
大噴湯(地元では『からふけ』と呼ぶ)が三、四丈(9m~12m)も吹き上がり、滝の落ちる川を越えて向こうの岸の岩にあたり、霧となって散っていく。
噴湯が岩の裂け目ごとに湯気の雲をわきおこして、雷神のような響きを立て吹き上げるように湯が出ている。
⊞ 大噴湯の温泉データ(説明板より)
- 泉温:91,3℃
- 湧出量:毎分223㍑
(平成17年地熱開発促進調査より)
不動滝
引用:国立国会図書館 秋田叢書第3巻
真澄記:
小安の山道には上道と下道がある。上道は大湯の山道から田代長根を通って、仙台領の文字が沢、岩が崎などへ出る。
下道は同じ方向に行くのであるが、途中より分かれて、仙台領のぬる湯の沢、河口などというところに出る。
途中に沼があり、そこを国境としているという。
⊞ 小安峡がここで終わった理由(説明板より)
不動滝の形成には温泉が関わっており、この場所で湧く温泉のシリカ成分は長い時間をかけて地層のすき間に染み込み周辺の岩を変質させていった。そのため、皆瀬川は不動滝より上流の大地を削ることができず、小安峡はここで終わった。
こうして出来上がった段差により、不動滝が生まれた。
小安御番所
小安峡温泉は前九年・後三年合戦の頃から日本海と太平洋を結ぶ交通の要所として『小安口』と呼ばれ、明治の初めまで御番所が置かれていた。
⊞ 御番所略歴
- 天和元年(1681):設置
- 文化10年(1813):現在の場所に移転
- 明治2年(1869):新政府によって廃止
アクセス
- 駐車場:あり
- 案内板:あり
- トイレ:あり
- 備考:国道398号線は冬期間閉鎖
- 木地山湿原
- 栗駒山
◆参考文献
- 菅江真澄全集
- 菅江真澄遊覧記第5巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 秋田叢書第3巻
- 真澄紀行/菅江真澄資料センター
- 各種説明板
取材日:2018/11/3
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