了翁禅師


了翁禅師

【りょうおうぜんし】

【人物】

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●秋田叢書第3巻150:了翁禅師の記録

《雪の出羽路 雄勝郡五 八幡村》

 

●資料:『湯沢の生んだ名僧 了翁さま』文=田口大師 絵=小松脩一

 寛永7年(1630)、雄勝八幡村生まれ、幼名・与茂治。

2歳で母と死別、養子に出るが、『不幸を招くマムシの子』といじめらる。

12才、東成瀬の龍泉寺に預けられた後出家。

1707年、78才で断食7日間ののち遷化。

 

●説明板:了翁杉の伐根

 与茂治(了翁禅師の幼名)は、岩井川の龍泉寺で剃髪し了然道覚となり仏弟子修行に入った。

寛永20年(1643)14歳のとき、平泉の中尊寺に参詣して藤原三代が奉納した大蔵経が散逸しているのを嘆き、大蔵経の収集を発願した。

 翌、正保元年(1644)8月15日、父を見舞うため帰郷し、産土神の八幡神社に参詣、大願成就を祈願した。

そしてこのまま神社に籠もって、凡そ4年の間丑の刻詣り二十一夜の荒業など苦行修練を積み、また、境内に杉苗580本を植えひたすら神力の加護を祈った。

この間、種々の人知では計り知れない多くの現象があったとのことである。

 元禄2年(1689)の秋、60歳の了翁禅師は巨額の浄財を喜捨して、この八幡神社を営造・再興し、その神徳を報謝した。

またこのとき輪王寺法親王から下賜された『八色八筋の旗』や『赤地金欄御戸帳』『半鐘』を奉納したが、『八色八筋の旗』は社宝として現存し湯沢市指定文化財となっている。

 了翁禅師が植えた杉苗は大木となり、大正時代にはその一部が十数本残っていたと文献にあるが、現在はこの伐根がわずかに当時をしのばせてくれる。

 

●図録 湯沢市の文化財97P:八色八筋(やくさやすじ)の旗 8旒

 

●標柱:史跡 了翁禅師の経塚

昭和50年4月5日 指定

 

●説明板:了翁禅師の経塚

 元禄15年(1702)正月。

73歳の了翁禅師(このとき佛國寺第四代住持)は老体を労わりながら、遠く京都から故郷の八幡村(やわたむら)へ帰省した。

 了翁禅師にとって生誕の地、八幡村は、辛く悲しい思い出の土地でもあったが、愛郷の念が強く、それまでも幾度か帰省している。

この旅はもう最後になるかも知れないと、雄物川の川原から千個の小石を集め、一個に一字ずつ経文を書いてこの地に埋め経塚とし、郷土の有縁無縁の人々の冥福を祈った。

 当時、雄物川は大雨のたびに洪水を起こしていたが、前年6月には『白髭の大水』と称される大洪水があって、この地方一帯に大きな被害をもたらした。

このことを、はるかに了翁禅師が伝え聞き、帰郷を促されたともいわれている。

 この経塚は、以来今日まで了翁禅師の遺徳を追慕する村人達に『禅師様』『お経塚』『一字一石塔』経塚と呼ばれ、信仰を集めている。

 なお、石塔の『佛國五代了翁』とあるのは『四代』の誤りである。


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◆参考書籍


最終更新:2024/10/20

【木崎 和広 (編集)】