菅江 真澄


菅江真澄

【すがえますみ】

【人物】


生い立ち

 1754(宝歴4)年頃、三河の国(愛知県)に生まれた…らしい

らしい、というのは真澄が極力自身のことを語りたがらない性格だったからと云われている。

後年、六郷の豪農・竹村治左ェ門に出生地をしつこく問われて真澄はしぶしぶ答えたが、

その場所は全くのデタラメだったという。

 そんな食わせモンな御仁だから若い頃の素性がよく分かっていない。

ただ記録に残る真澄の広い知識と教養は多くの知識人から学び育まれたこと、

また度々三河と尾張を行来していた事から旅行癖は備わっていたようだ。

その頃は姓を白井、名を英二・秀超・秀雄・幾代治・知之・などと名乗っていた。

名前変えすぎ。


信濃〜出羽、一度目の秋田

 30歳の真澄は漂泊の旅に身を委ねる。

信濃(長野県)を1年ほどかけて縦断したのち日本海側を歩き三崎峠から秋田入りを果たす。が、この時は1年と数ヶ月で秋田を抜けている。

この時点での旅では秋田は通過点に過ぎず、目的地は別にあったようだ。

それはズバリ蝦夷地(北海道)である。


天明の大飢饉

 天明3年(1783)から翌年にかけて東北では未曾有の大飢饉に見舞われた。

この時 八戸藩(青森)と南部藩(岩手)で死者が10万人に及んだという。道端には餓死した骸が累々とし、暴徒が火を放ち焼け野原となった惨状は真澄に大きく衝撃を与えた。

この世の地獄であるがゆえに青森の善知鳥神社に詣でたとき「3年待て」と託宣を受けた。

大飢饉が落ち着くまで待てとの事なのだろう。

 

 真澄はいったん青森を引き返し、言葉通り3年間は陸奥(仙台、松島まで)を旅して過ごすことになる。


アイヌの旅

 天明8年(1788)34歳。

律儀に3年待って宿願の北海道へ渡る。

18世紀当時の北海道は、現地人のアイヌが暮らす蝦夷地と松前藩が統治する和人地に分かれた渡島半島には明確な境界線があった。

処遇をめぐってアイヌ側の反乱もたびたび起こっていたようである。

 

 真澄は滞在期間の4年間のほとんどを松前藩で過ごしたが、洞爺湖の有珠山と太田山の

太田権現にも登拝している。当地へ向かうには境界線の厳重なる許可が必要だったはずだが、どうやって越えることができたのか。

 

 滞在中、文字を持たない文化のアイヌと交流を深め、《えぞのてぶり》に記録を纏めた。


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◆参考書籍


最終更新:2024/10/27

【菅江 真澄 (著), 内田 武志 (著), 宮本 常一 (著)/平凡社】
【菅江 真澄 (著), 内田 武志 (著), 宮本 常一 (著)/平凡社】