たいへいざん のだぐち
秋田市大平山山谷野田
最終更新:2024/11/14
標柱「菅江真澄の道」の探索も順調な頃、平地の標柱はあらかた見つけてこれたが、やはり山岳地帯などに建つ標柱は後手に廻っていた。その最たる例がこの太平山だったのだが、登山などここしばらく経験がなく向かうべきか迷っていた。
「でもまあ、いいか。登るか」
気が向いたので登ることにした。
ノープラン上等。
- 来訪:文化9年(1812)7月
- 年齢:59歳
- 書名:月のおろちね
- 形式:日記、図絵
- 詠歌:
- やまの名の鬼のしこ艸ふしなびき 涼しくこゆる御代の秋風
- 誰かそてもぬさの追風ふきはらひ 身もきよまはり山や越やなん
トレッキングに挑むにあたって装備を一式揃えるわけだが、やはり登山靴の新調は喫緊だった。「下足(ゲソ)と枕は高い方がいい」と言うが(そうか?)靴の性能いかんによってアウトドアの能率が飛躍的に上がる。
何を食い詰めても靴だけはケチってはならぬ。
真澄翁が太平山を登る時は錚々たるメンバーが同行した。
藩校明徳館の重鎮・那珂通博、
寺内古四王神社の住職・鎌田正家、
あとは、まあ、その、よく分からんがとにかく錚々たるメンバーが集まった。類は友を呼ぶのだ。
私も慣れぬ登山でソロは非常に不安を覚えたのでトレッキング巧者の友人の同行を請うた。きっと足手まといになる私を大いに引っ張りあげてくれるだろう。
これで準備万端覚悟完了。
秋田県の屋根とも名高い太平山その制覇に、いざ挑まん。
駐車スペース(?)に車を停めて太平山と平行して道を進とさっそく悪路が我々を迎える。太平川の渓流を傍目に石くれの一つ一つが大きく、歩くのに難儀する。
早々に山の洗礼を受けたといったところだが、そこからさらに進むと2本の巨杉に挟まれた小祠が右手側に現れる。由緒は分からぬがなんとなく存在感を放っている。
こういう祠にこそ興味深い由緒があったりするのよね。
この赤鳥居をくぐると本格的に登山開始となる。ちなみに登山を計画する際は事前に警察署へ入山届の提出が必要(届出済)。
いざ遭難した時のセーフティネットとして国家権力に認知してもらうのだ。
中平(なかたい)というところに鳥居がある。『ざく沢』という山の中に大きな桂の木があり、枝にモギの木の枝を大量に打ちかけてある。『鍵懸(カンカケ)』といって、山の神に祈念する習俗である。
《月のおろちね》
『鍵懸(カンカケ)』という風習については、真澄翁が度々日記に書いており、個別に紹介ページを設けたのでそちらを参照されたし。私はこの風習を目にしたことが無い。
[日記の記録は前後するが]
山谷から女人堂までの参道は新城黒川村の鉄玄法師が地元の青年・新兵衛に指示して木を伐り、岩を割って山道を作らせた。
《月のおろちね》
真澄翁の記録では当時の有志たちが山道を切り拓いたそうだが、平坦なコンクリートのインフラに慣れきった軟弱な現代人にはなかなか堪える道筋だ。
しかし木々に縛られたテープのマーキング、丸太の桟橋、階段梯子など登山者をサポートする設備の数々が随所に設置されている。これらのおかげで我々は歩を進める事ができる。
いつだって先駆者には感謝の念を抱かねばならぬ。
太平川を何度も両岸を往復して進む。
なかでも圧巻だったのはこの素材を十二分に活かして作られた足場だった。枝ぶりの曲がりに鐙を踏むように足を掛けて川を渡る。
いつ頃からこれが作られてあるのだろうか。
そもそもこのルートは表参道と銘打ってはいるものの廃道扱いとなっており整備もままならないはずなのだ。
高い岩から南に向けて不動の滝というのが落ちていた。
「ああ、おもしろい眺めだ」
とみなふり仰いだり、見下ろしたりしていた。地元の昔話が伝わる沢が多く、その中の艮(うしとら、北東)に牛喰沢(ウシバミ沢)があった。
《月のおろちね》
野田登山道の見所といえる不動の滝。
道もだいぶ狭くなっており、一足踏み外したら崖っぷちの危うさにある。
先はまだまだ長いがここで一息をつく。
滝は2段になっており、写真の下にもう一段滝が落ちている。
真澄翁の図絵にも滝と不動明王が描かれているが、滝のふもとに丸太橋が架けられている。現在では滝をまたぐ事は無かったので当時とは違う登山道があったのだろう。
私が通った時は気付かなかったが、他の方のレポートを見るに橋があった名残があっあようだ。
このあたりの路は険しく、危なげに辿って女人堂というところに来た。
女人堂を作ったのは鉄玄法師で、女人禁制のこの山では女性たちはこの堂で引き返した。今は荒れ果てて2尺3寸の小さな堂ばかりが並んでいる。
《月のおろちね》
ここで道に迷ってしまった。
周囲を見渡し途方に暮れていると、画像の女人堂の脇に辛くも道を見つけた。この堂宇が道標になっていた。
「鉄玄法師」という名は真澄翁の太平山の記録に度々名が出てくる。昔の知られた名僧だったようだ。
『剣岳』とも書く。標高1,097m。
真澄翁の記録と同じく、女人堂から降ってきた雨足が強くなってきた。
ブナの幹に雨水がカーテンのように流れる。
ここからこの登山コースの大変さを本格的に味わう事になる。
登山というよりはほぼ垂直のロッククライミングだった。岩肌の一つ、いや一段々々を両手両足をフルに使って昇っていく。
女人堂まで来るのに既に体力の7割は消費していたのでこの関門は本当に根をあげそうになった。写真撮る気力さえ奪われた。
一時、遭難を覚悟したが、随伴者の的確なペース配分によって辛うじて登頂することができた。確かにこの登山コースは初心者向きではない。
(後で確認すると別ルートがあるっぽい)
優婆御前という神の御名になぞらえていう石があった。この南を『親渓平(むさわたい)』という。
《月のおろちね》
雨は止み、剣岳をやっとの思いで登攀すると、達成感と安堵感からか妙な居心地の良さを覚えた。あるいは普段の暮らしの景観とは違う非日常さがそう思わせるのかも知れない。
とりあえずケガなくて良かった…。
苔むした石仏が登山者を出迎える。
那珂通博が詩を朗吟している。
《月のおろちね》
標高1,033m。
亜高山帯と呼ぶには高さは足りないが、ここまで来ると岩肌が露出し植物の背丈も低く生えている。
剣岳で打たれた雨は抜け、折悪しく霧に覆われた。快晴だったら見事な眼下を望む事が出来ただろう。
しばし稜線に沿って歩を進める。
鎖場。
路の左右から2本の木の枝が刺し覆っている。これを『神の鳥居木』と呼んでいる。
『たっちら(ダケカンバ)』という木を使っているというが、この地方の方言だろうか。
《月のおろちね》
「念仏坂」と呼ぶらしい。
鎖は真澄翁の頃から設置されており、何ヵ所かある。
日記に記されている「たっちら」とは白樺のことらしい。野田口に保存樹として残っているとのことだが確認できなかった。
《月のおろちね》
稜線歩きは登山の醍醐味だと聞く。
霧はついぞ晴れることはなかった。残念。
堂も無いが、こういう形でも神社というらしい。
山頂まであと一息。
隣に籠舎(こもりや)があったが別当の僧が断食の斎(ものいみ)を行なっていたので止むを得ずこの堂に入った。
持参した水や食物を食べて手を洗い火を灯し、拝んだ。
《月のおろちね》
鳥居が見えた時の感動たるや。
山頂まで所要時間約5時間。
山慣れしてる人ならばもっと早いと思うが、複数ある太平山登山コースの中でも野田ルートは決して初心者向けではない。
旭又ルートと合流した後も山道は非常に狭く、滑落の危険も大いにありうる。チャレンジしたい方は登山届を提出の上、充分な装備と同伴者の付随を強くオススメします。
晴れていれば景色も素晴らしかったであろう。しかし今回は大きな事故もなく無事に登頂できた事を喜びたい。
- 太平山三吉神社 総本宮(木曽石)
- 勝手明神
- 嵯峨勝珍旧宅跡
◆参考資料・サイト
- 菅江真澄遊覧記第5巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一訳
- 菅江真澄読本第3巻/田口昌樹
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 大平山三吉神社HP
- YAMAPP 太平山 表参道野田口 ruru様
- 取材協力・冨澤克次
取材日:2018/08/11
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